新入社員、転職者として期待に胸を膨らませて入社手続きを進める中、人事担当者から渡された一枚の書類に、ふと手が止まった方も多いでしょう。
「給与振込先は、当社の指定する〇〇銀行の口座に限ります。口座をお持ちでない方は、新規開設をお願いします」
「会社に言われたから仕方ない」と、わざわざ新しい口座を開設した方も多いはずです。
私も学生アルバイトのとき言われて、口座開設した経験が何度かあります。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみてください。
あなたが汗水流して稼いだ給料を、どの口座で受け取るか、その選択権は、本当に会社側にあるのでしょうか?
最近は個人のライフスタイルに合わせてメガバンク、ネット銀行、地方銀行を使い分けるのが当たり前の時代です。
住宅ローンの引き落とし、クレジットカードの決済、資産運用など、お金の「流れ」は人それぞれ最適化されています。
給料入金口座を指定すると特典があるケースも多いです。
それにもかかわらず、なぜ会社という組織は、個人の極めてプライベートな領域である「銀行口座」にまで介入してくるのでしょうか。
結論を先にお伝えすると、会社が給料の振込口座を一方的に「指定」し、従わなければ不利益を与えるような行為は、労働基準法に違反する可能性があります。
この記事では、賃金支払いのルールの本質を解き明かし、もし口座を指定されたときにどう対応すべきかを具体的にお伝えします。
読み終えるころには、「なぜ会社は口座を指定したがるのか?」という裏側の事情まで理解でき、冷静に判断できるようになっているでしょう。
そもそも給料は「手渡し」が原則。意外と知らない賃金支払の5原則
「給料は銀行振込で受け取るもの」多くの方がそう思っているかもしれません。
しかし、労働基準法の世界では、これは「例外」に過ぎません。
労働基準法第24条は、労働者の生活を守るために「賃金支払の5原則」を定めています。
この5つの原則こそが、給料口座の指定問題を考えるうえでの出発点です。
賃金支払の5原則とは
| 原則 | 内容 | ポイント |
|---|---|---|
| 通貨払いの原則 | 日本円の現金で支払う | 現物支給や小切手は原則NG |
| 直接払いの原則 | 労働者本人に直接支払う | 代理人への支払いは原則NG |
| 全額払いの原則 | 法定控除を除き全額を支払う | 勝手な天引きはNG |
| 毎月1回以上払いの原則 | 毎月最低1回は支払う | 2ヶ月に1回などはNG |
| 一定期日払いの原則 | 決まった日に支払う | 「月末」「25日」など固定する |
この5原則のうち、特に重要なのが「通貨払いの原則」と「直接払いの原則」です。
厳密に法律を解釈すれば、給料は「現金を、本人に、直接手渡す」のが大原則なのです。
「えっ、でも今はどこも銀行振込ですよね?」と思われるでしょう。
その通りです。銀行振込は、あくまで労働基準法施行規則に基づく「例外措置」として認められているに過ぎません。
ここに、給料口座問題の本質が隠れています。
口座振込は「例外」労働者の同意が絶対条件
銀行振込が例外である以上、それを実施するためには一定の条件をクリアしなければなりません。
労働基準法施行規則第7条の2第1項第1号では、口座振込について次のように規定しています。
「労働者が指定する銀行その他の金融機関に対する労働者の預貯金への振込みによる方法」
この条文のポイントは2つです。
口座を「指定」するのは労働者側
条文は明確に「労働者が指定する」と定めています。
会社側ではありません。
つまり、振込先の金融機関を選ぶ権利は、法律上、労働者にあるのです。
労働者の「同意」が必要
口座振込自体が、労働者の同意があって初めて認められる仕組みです。
銀行振込に同意しない労働者に対して、会社が一方的に振込を強制することさえできません(その場合は現金手渡しで支払う必要があります)。
さらに、厚生労働省の行政通達(令和4年11月28日基発第1128004号)では、「取扱金融機関等を一つに限定せず、複数とする等、労働者の便宜に十分配慮して定めること」と指導しています。
つまり、法律も行政指導も、一貫して「口座の選択権は労働者にある」というスタンスを取っているのです。
「給料口座の指定は違法」なのか?
ここで、多くの方が気になる「給料口座の指定は違法なのか?」という問いに、お答えします。
「強制」は違法、「推奨」は適法
結論から言うと、会社が特定の銀行を「指定」し、それ以外の口座を認めないという対応は、労働基準法に違反する取り扱いです。
労働基準法第120条第1項では、賃金支払いの原則に違反した場合、30万円以下の罰金に処すと定めています。
会社が振込先の変更や現金での支払いを拒否した場合には、労働基準監督署による立ち入り調査や行政指導が行われる可能性もあります。
ただし、ここには重要なグレーゾーンがあります。
「○○銀行での口座開設にご協力をお願いします」という「推奨」や「協力要請」は、法律上は認められています。
あくまで強制ではなく、お願いのレベルであれば問題ないのです。
問題は、「推奨」と「強制」の境界線が実務上は曖昧だということ。
入社したばかりの新入社員や転職者が、会社からの「お願い」を断れるかと言えば、現実にはなかなか難しいでしょう。
多くの会社が入社時にあたかも当然のように特定の金融機関の口座開設を求める書類を提出させ、それによって労働者の同意と指定がなされた形を取っているのが実情かもしれません。
「ブラック企業」なの?
「給料口座を指定する会社はブラック企業だ」
SNSではこうした声も見かけますが、必ずしもそうとは限りません。
後述するように、会社にも口座を統一したい合理的な理由があります。
大切なのは、「指定」なのか「推奨」なのか、そして従業員が別の口座を希望した場合にきちんと対応してくれるかどうか、という点です。
口座の統一を「お願い」するだけの会社を即座にブラック認定するのは行き過ぎですが、拒否したら不利益を受けた、というケースがあれば、それは明確に問題です。
なぜ会社は給料振込銀行を指定したがるのか?
ここからは、少し視点を変えて「会社側の事情」を見てみましょう。
これを知ることで、口座指定を求められたときに、感情的にならず冷静に対応できるようになります。
振込手数料の削減
会社が取引銀行(メインバンク)と同じ銀行に従業員の口座を集約できれば、振込手数料は「同行間振込」の扱いとなり、大幅にコストを削減できます。
例えば、従業員100人の会社で、他行宛の振込手数料が1件あたり900円かかるとしましょう。
全員がバラバラの銀行だと、毎月9万円、年間108万円の手数料が発生します。
同行に統一できれば、この費用がゼロまたは大幅に圧縮されるわけです。
特に中小企業にとって、この「年間約百万円」は決して小さくない金額です。
理由2:給与振込事務の効率化
給与振込の実務では、複数の金融機関に対応するためにFBデータ(全国銀行協会の振込フォーマット)を金融機関ごとに作成・送信する必要があるケースがあります。
取引銀行を一本化できれば、事務作業は格段にシンプルになります。
銀行が多いほど振込データの形式差、締切時刻、反映時刻の差が出てミスも起きやすくなりますからね。
昨今はインターネットバンキングが発達していますので、銀行が変わっても初期設定だけで、昔ほど事務作業は変わらないと思いますが・・・
一度決めたルールをあまり変えたがらない企業も多いですから、実は「昔からそうだったから・・・」というのが本当の理由というケースもあります。
ちなみにどうやって振り込むかによって通帳の摘要欄が変わったりします。

理由3:メインバンクとの関係維持
会社にとって取引銀行との関係は、融資や資金繰りに直結する重要な経営課題です。
特に地方の中小企業の場合、地元の地方銀行や信用金庫との関係は、企業の生命線です。
会社は銀行から運転資金や設備投資のための多額の融資を受けています。
銀行側からすれば、お金を貸している企業は「大口のお得意様」です。
ここで、銀行の営業担当者は企業に対してある「お願い」をします。
「社長、いつもご融資でお世話になっております。つきましては、新入社員の皆様の給与振込口座を、ぜひ当行で作っていただけないでしょうか」
銀行にとって、毎月確実にお金が振り込まれる「給与口座」を獲得することは、極めて価値が高いのです。
銀行によりますが、営業担当者にノルマ件数があるケースも多いです。
給与口座を押さえれば、将来その従業員が車を買う時のマイカーローン、家を建てる時の住宅ローン、あるいはクレジットカードの作成など、あらゆる金融商品をクロスセル(関連販売)する基点になります。
企業側も、融資という「生殺与奪の権」を握られている、あるいは今後の金利交渉を有利に進めたいという思惑から、「分かりました。新入社員には御行で口座を作らせますよ」と安請け合いしてしまうのです。
元経理の立場から言わせるとこの部分は大きいですね。
理由4:給与支払日の確実な着金
同行間であれば、振込処理から着金までのタイムラグが少なく、給料日当日の午前中に確実に引き出せる可能性が高まります。
行政通達では「賃金支払日の午前10時頃までに払い出しが可能となっていること」が求められており、他行宛だとこのスケジュール管理が難しくなることがあります。
給料が遅延すると危ない会社と思われがちですしね。

こうした事情を理解すれば、会社側にも一定の合理性があることがわかります。
しかし、だからといって法律で保障された労働者の権利を制限してよいということにはなりません。
ここに、給料口座指定問題の本質的な構図があります。
「会社の経営合理性」と「労働者の権利」のバランスをどう取るか?
この問いに対する法律の答えは明確です。
推奨はOK、強制はNG。最終的な選択権は労働者にある。
これが大原則です。
口座指定を拒否したい場合の具体的な対処法
では、実際に「この銀行で口座を開設してください」と言われたとき、どのように対応すればよいのでしょうか。
まずは冷静に状況を確認する
最初に確認すべきは、それが「強制」なのか「推奨」なのかです。
会社の書類や担当者の説明を注意深く見てみましょう。
「必ず○○銀行で」と書かれていれば強制的なニュアンスがありますし、「ご協力をお願いします」であれば推奨です。
丁寧に自分の希望を伝える
いきなり「労働基準法違反ですよね? 私の好きな銀行に振り込んでください!」と正論を振りかざして人事担当者と対立するのは、得策ではありません。
入社直後や転職直後のあなたは、社内での信用残高がまだゼロの状態です。
ここで「面倒な社員」というレッテルを貼られることは、あなた自身のキャリアにおいて「損失」になりかねません。
相手の顔を潰さず、論理的に、かつ柔らかく交渉することが重要です。
まずは、指定口座にされることで、あなた自身に具体的な「実害」が生じることを、感情的にならずに伝えるのもよいでしょう。
「会社指定の〇〇銀行についてご相談があります。現在、私の生活費の引き落とし、クレジットカード、および住宅ローン(または奨学金の返済など)の決済がすべて△△銀行に紐づいております。もし〇〇銀行に振り込まれた場合、毎月手動で△△銀行に資金を移動させる必要があり、多額の振込手数料と手間が発生してしまいます。つきましては、これまで通り△△銀行への振り込みをお願いできないでしょうか?」
この伝え方のポイントは、「会社に反発している」のではなく、「物理的な不便と金銭的な損失を回避したい」という正当な理由を提示している点です。
法的根拠を示す
それでも「うちはこの銀行じゃないとダメです」と言われた場合は、法的根拠を伝えるのもありです。
「労働基準法施行規則第7条の2では、振込先は労働者が指定する金融機関と規定されていると聞いたのですが」と、あくまで丁寧に伝えることが重要です。
ここまで言われれば、まともな人事担当者であれば「これは下手な対応をすると労働基準監督署に駆け込まれるリスクがある」と気づき、態度を軟化させると思われます。
それでも対応してもらえない場合
それでも会社がどうしても応じない場合は、以下の相談先があります。
- 労働基準監督署:賃金支払いの原則に関する相談を受け付けています。匿名での相談も可能です。
- 総合労働相談コーナー:各都道府県労働局に設置されており、無料で相談できます。
- 弁護士・社会保険労務士:より専門的なアドバイスが必要な場合に。
なお、厚生労働省のQ&Aでも、銀行振込に同意しない労働者に強制することはできないと明記されています(出典:厚生労働省「労働基準法に関するQ&A」)。
注意点:振込手数料は誰が負担する?
「別の銀行にするなら振込手数料はあなた持ちですよ」と言われるケースもあります。
しかし、振込手数料を従業員の給料から天引きすることは、「全額払いの原則」に抵触する可能性があります。
また、民法第485条では、弁済の費用は債務者(この場合は賃金を支払う会社側)の負担とする旨を定めています。
したがって、振込手数料は原則として会社が負担すべきものです。
振込手数料は会社都合による運営上の事務経費であり、従業員に負担させることは望ましくないとされています。
給与のデジタル払い解禁——口座指定問題の「これから」
ここまで読んで、「銀行口座の話はわかったけど、最近PayPayとかで給料を受け取れるって聞いたけど?」と思った方もいるかもしれません。
実は2023年4月の労働基準法施行規則改正により、給与のデジタル払い(資金移動業者の口座への振込) が解禁されました。
2024年8月にはPayPayが初の指定資金移動業者として認定を受け、同年9月から実際にデジタル給与の支払いがスタートしています。
2025年時点では、PayPayに加えてリクルート系・楽天系・au系の計4社が指定業者として登録されています。
ただし、デジタル給与払いの普及はまだこれから。
厚生労働省が公表したデータによると、2024年度末時点でのデジタル給与の登録口座は約1万7,210件にとどまっています。
日本の雇用者数が約6,123万人であることを考えると、利用はごく一部です。
デジタル給与でも「労働者の選択権」は変わらない
ここで押さえておきたいのは、デジタル給与払いにおいても、賃金支払いの原則は同様に適用されるという点です。
会社がデジタル給与払いを一方的に強制することはできません。
必ず個々の従業員から書面による同意を得る必要があり、希望すればいつでも銀行振込に戻せる体制を整えることが義務づけられています。
つまり、銀行口座であれデジタルマネーであれ、給料の受取方法を最終的に選ぶのは労働者自身という原則は一貫しています。
今後、デジタル給与払いが普及すれば、「給料口座はどこにしますか?」ではなく「銀行口座とデジタルマネー、どちらで受け取りますか?」と聞かれる時代が来るかもしれません。
その時にも、選択権は自分にあるということを覚えておきましょう。
よくある質問(FAQ)
次によくある質問を見ていきましょう。
- 口座指定を拒否したら、内定を取り消されることはありますか?
-
口座指定を拒否したことを理由とする内定取消しは、客観的に合理的な理由とは言えず、認められる可能性は極めて低いです。
もしそのような対応をされた場合は、労働基準監督署や弁護士に相談することをおすすめします。
- すでに会社指定の口座で給料を受け取っている場合、途中で変更できますか?
-
できます。「労働者が指定する金融機関」という原則は、入社時だけでなく、在職中も継続して適用されます。
人事・総務部門に変更希望を伝えれば、対応してもらえるはずです。
- 2つの口座に分けて振り込んでもらうことは可能ですか?
-
法律上、複数口座への分割振込を禁止する規定はありません。
ただし、これは会社の給与システムの対応状況によるため、希望する場合は個別に相談してみましょう。
- パートやアルバイトでも同じルールが適用されますか?
-
はい。賃金支払の5原則は、雇用形態にかかわらず、すべての労働者に適用されます。
パートやアルバイトの方も同様に口座の選択権を持っています。
まとめ
最後にまとめて要点をみておきましょう。
- 給料の支払いは「現金手渡し」が法律上の原則であり、銀行振込は例外的な取り扱いである
- 振込先の口座を指定する権利は、法律上「労働者側」にある(労働基準法施行規則第7条の2)
- 会社による口座の「推奨・協力要請」は適法だが、「強制」は違法となりうる
- 違反した場合は30万円以下の罰金が科される可能性があり、労基署の指導対象にもなる
- 振込手数料は原則として会社が負担すべきもの
- 給与デジタル払いが始まっても、労働者の選択権という原則は変わらない
「会社に言われたから」という理由だけで、自分の権利を知らないまま従ってしまう。
これは、新入社員や転職者が陥りやすい落とし穴です。
もちろん、会社との関係を大切にしたいという気持ちも理解できます。
口座を合わせることで業務効率化に協力するという選択も、十分に合理的です。
大切なのは、「知ったうえで選ぶ」ことです。
法律上の権利を知り、会社側の事情も理解し、そのうえで自分にとってベストな選択をする。
それが、これからの時代を賢く生きるための第一歩ではないでしょうか。
この記事が、みなさんの「お金の選択」に少しでも役立てば幸いです。
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